Krankenhaus

わたしはまだ図書館を持っていないし、かれもどうやら持っていないようだった

愛城華恋とは誰だったのか ―密室を覗くということ、あるいは落下する読者―

 およそ一か月ほど前、高校来の友人であるとあるオタクに、あるアニメを勧められた。

 それが『少女☆歌劇レヴュースタァライト』だった。

 

 

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 この『少女☆歌劇レヴュースタァライト』、監督を務めるのは『美少女戦士セーラームーン』や『少女革命ウテナ』の監督で知られるかの幾原邦彦氏の直弟子である古川知宏氏だ。

 ぶっちゃけウテナも『ユリ熊嵐』も未履修の、有り体に言えばあのあたりの作品群をなんとなく敬遠してきたぼくはこのアニメを勧められたときふーん、という具合だったのだが、この愛すべき友人はぼくとまったく趣味が合わないくせにぼくの趣味を完全に掌握しているところがあって、その点やたらと信頼できる。つまるところ観てみたらおもしろかった。

 つまりこの評論(のようなもの)は、その彼にただ、勧めてもらったアニメおもしろかったよ、とそう伝えることを動機に書かれている。しかしいかに私信といえど、一応評論を自負する以上は、広い読者を意識しながら論を進めていきたいとは思っている。

 また、ぼくはアニメ版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』しか観ていない。調べたところ本作品はミュージカルや漫画など、いわゆるメディアミックス作品として世出している。後述する論点のいくつかは、あるいは他メディア作品を総合すると、まるで見当違いなものになるかもしれない。しかしまあ前述のとおり、本論の執筆動機はあくまで「勧められたアニメの感想文」なのであることだし、アニメを独立した一作品と捉えることで見えるものもあるであろうから、その点は了承いただきたい。

 では前置きもこのあたりに、本論に入りたいと思う。

 なお、執筆にあたってちょうどいいタイミングでYouTubeの公式チャンネル(スタァライトチャンネル - YouTube)において期間限定で全話配信が開始されたため、本論に添付するキャプチャはすべてその動画からとっている。したがって右上に広告が掲載されているが、その点重ねて了承いただきたい。台詞引用はすべてぼくが視聴しながら文字起こししたものである。

 ちなみにぼくの好きなキャラクターは星見純那ちゃんである。

 

問題意識の共有

 『少女☆歌劇レヴュースタァライト』は国内有数の演劇学校、聖翔音楽学園を舞台に、それぞれの舞台少女たちが、「最も強いきらめきを見せた」者には「トップスタァ」への道が開けるという「オーディション」に参加するなかで舞台少女としてのあり方を見つけていく、という、おおざっぱに説明しておくとそんな物語だ。

 全12話から構成される本作品のなかで、あえて印象的なシーンがあるとすれば、おそらく10人中5,6人くらいは、あの場面を想起するのではないか。

 そう、最終話における「こ っ ち み ん な(shita big red)」のシーンである。舞台上ではレヴューがクライマックスを迎えようとしている最中、唐突にキリンがこちらを向き、「あなた」と語り掛けてきたときには、誰もが混乱したはずである。ぼくもした。

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図1:画面越しにこちらに語り掛けるキリン

なぜ私が見ているだけなのかわからない? わかります。舞台とは、演じる者と観る者が揃って成り立つもの。演者が立ち、観客が望むかぎり続くのです。――そう、あなたが彼女たちを見守り続けてきたように。

  一時は混乱したものの、すこし文学や批評をかじったことのある視聴者ならすぐにこう思う――メタフィクションだ!

 すこしも文学や批評をかじったことのない人向けにすこし説明すると、メタフィクションとは要は「創作物であることについて自覚的である(構造を持つ)創作物」のことである。あえて広く定義づけたのは、無論「メタフィクション」ということばの取り扱いはいまだ個々人に任されているところがあるし、本論においてはそこを厳密にしておく必要はないと判断したからだ。メタフィクションオタクたちの熱い非難を恐れたわけではけっしてない。

 叙述トリックとか、この手のメタフィクションは投じられているだけで狐につままれたような感覚になって、手放しに称揚されることが多い。読者は常に作品に翻弄されたがっているらしい。しかしあらゆる表現技法は手法であってそれ自体は目的ではない。読者や視聴者を翻弄したいだけなら手品でもやっていればいいのだ。問題はその技法が、いかなる効果を生んでいるのかにある。

 ここであらかじめ注記しておきたいのは、これから論じていくその効果が、冒頭の古川氏の意図であると証明することが本論の目的ではないということである。創作主体は彼の創作物に対し全能であるというのはとても健気な幻想だ。

 つまり本論で考えていくのはあの場面が作品上必要であったかという問題である。勿論(メタ的に言えば)こうしてこの文章が書かれている以上、「必要でなかった」という結論が導き出される可能性の低いことを読者の皆様は予想できるだろうが*1、こうした問題意識のもと考察を進めていくことを確認したところで次に進もう。

<密室>と我々の自意識の所在

 <第四の壁>、ということばをご存知だろうか。あるいは<第四隔壁>でもかまわない。

 これもまたメタフィクションにすこし明るい読者には聞きなじみのあることばかもしれない。元々は演劇用語で、簡単に言えば舞台上、演者からみて左右後方の3面に加えて、観客と演者を隔てるみえない4つ目の壁のことで、舞台上を一個の独立した<密室>に仕立てるための隔絶のことを指す。それはつまり舞台上の<虚構>と観客の<現実>との境界と換言することができ、現在では演劇だけでなく、フィクション(特にメタフィクション)全般に係る用語として使用される。

諸君が脚本を作るにもせよ、演じるにもせよ、観客はいないものだと思って、それ以上のことを考えてはいけない。舞台の端に諸君を平土間から分つ大きな壁があると考えたまえ。幕が上らなかったの如く演じたまえ。*2

 上記に引用したのは18世紀フランスの哲学者、ドゥニ・ディドロDenis Diderot)の「演劇論」の一節である。彼の提唱するのはまさしく<第四の壁>概念そのものなのであるが、この意識の目指すところについて、今尾哲也氏は次のように述べる。

個体が自分自身の内部で、自分自身と交す談話を、第三者の存在を意識せずにひそかに告白する場所こそ、<第四の壁>の内なる閉塞的な世界に他ならなかった。*3

 つまりこの深い「自己告白の形式」こそ、演者と観客が相互に干渉しあっては成しえないものだと氏は述べるのである。どこまでも閉じた世界のなかで登場人物は現実の我々と同じようにときに煩悶し、ときに歓喜する。そこにあるのは彼ら/彼女らの生活そのものであり、<虚構>として切り離されたはずの物語は、厳然と横たわる<現実>へと変わるのである。

 アニメーション作品における<第四の壁>とは、勿論パソコンしかりテレビしかり、その画面、ということになる。『少女☆歌劇レヴュースタァライト』においても、その壁は最終話、キリンが突然画面の外の我々に語り掛け、<第四の壁>の崩壊(あるいは拡張)が起こるまで、十分に機能している。彼女たちの苦悩はみな切実な現実味を伴って我々に迫る。一見してこの壁を破るという行為は、彼女たちの<現実>を陳腐な<虚構>へと陥れる悪手にも見える(というよりこれこそこの手法の難点の全部と言っていい)。とはいえこれが単に無用で、いけ好かないだけの演出であると断定するには早い。作品の傍観者から一転、作品内部へと取り込まれ、密室の住人となること。それが一体何を示すのかに、話を戻そう。

 ひとたび<第四の壁>の内側へと引きずり込まれた我々の自意識は、当然物語の開幕当初まで遡及する。我々の作品内部における位置が、この演出により事後的に決定されるのである。ともすればこの作品において<観客>の描写が存在するのが第7話における第99回聖翔祭(おそらく「繰り返し」の起こる以前、つまり初回)にて行われた「スタァライト」のシーンただ一度であることは大変示唆的であろう。華恋とひかりの幼少期の回想シーンですら2人以外の観客は描かれない徹底ぶりである。

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図2:華恋と誰も座っていない観客席

 要するに、あの空席こそが、我々の自意識の向かう「座」なのだ*4。彼女たちがあくまで「舞台少女」だというのなら、そこには<観客>がいてしかるべきだという至極当然なことに、我々は今更ながら気づくことになる。

  安全な物語の<観測者>という立場から<観客>という役に配置された我々に起こるのは、強烈な当事者意識である。我々は当事者として、キリンの悪辣を嫌悪し、またその嫌悪が同属嫌悪であることを悲嘆する。これらの一連の効果は、演劇という構造そのものに担保されている。すなわち演劇という<演者>と<観客>が自然に要請される構造を壁のなかに用意することにより「座」を設けえたという点で、本作は「あなた」の内容を限定せざるを得なかったり、その指示を作品外部へと向けるに至らなかったいくつかの二人称小説などとは一線を画すものとなっているのである。

愛城華恋とは誰だったのか

 ところでぼくの「『少女☆歌劇レヴュースタァライト』には一部を除いて<観客>に関する描写が存在しない」という主張に異議を唱えたい読者もいるだろうと思う。なぜなら登場人物(?)のうち、<観客>を自負するキャラクターが1人(?)いるからだ。言わずもがなキリンである。

 では本作に登場する<観客>はキリン1匹だけなのだろうか。我々にもたらされた当事者意識は、悪趣味なキリンを嫌悪することの自己矛盾を反射するためだけに機能するのだろうか。我々の無力感には、その先があるのではないか……。

 勿体ぶらずに言えば、もう1人、『少女☆歌劇レヴュースタァライト』には<観客>として描かれていた人物がいると、ぼくは考えている。

 そう、愛城華恋だ。

 愛城華恋は「朝も1人で起きられない」、「主役にならなくてもいい」女の子だ。彼女は今回の「再演」において、神楽ひかりという<装置>がなければ本来「オーディション」の外で物語を終えていたはずの少女である。その特異性については、第9話において大場ななもこう述べている。

でも、どうしてなの? 今回の再演、何が……? ひかりちゃんが参加して始まった、8人のオーディション。再演でいつも最下位だった華恋ちゃんはキャストから外された……。でも! 華恋ちゃんが飛び入りで……! ……ひかりちゃんじゃ、ない? 私の再演を変えたのは、華恋ちゃん……?

  愛城華恋は、偶然ひかりのピンチに出くわし、すさまじい決断力と行動力で「オーディション」に飛び入り参加を果たす。もはやこの際2人の過去など棚に放り上げてしまってよい。<観客>だったはずの彼女は<演者>へと転化してみせる。つまり、彼女はありえた我々なのだ。なりえなかった、パラレルな自己を、そこに投影することができる。そして彼女は我々の分身として、物語を終演まで牽引していくのだ。そこにはひとつのカタルシスがあり、またより深い自己内省がある。

 我々は愛城華恋になれなかった――この臨場感が、あのキリンの呼び掛けによって成立していることは疑いようがない。

結びに

 以上が本論のすべてである。アニメ評論なるものをはじめて書いたものだから、適切な文字数というのがわからず、なんとなくつらつら書いていたら5000字程度になっていた。本当はアニメーション作品の人称や視点の問題にも触れたかったけれど、べつに論旨に関わりがあるかと言われればそんなにない気がしたので省略した。

 『少女☆歌劇レヴュースタァライト』はおそらく他にもモチーフの問題(本作には落下や倒れた塔の描写が多数存在する)や「再演」の諸問題など論点が山盛りだ。ぼくはもうしないし、誰かが書いていても読まないだろうけれど、そういうあれこれを考えてみてもおもしろいかもしれない。

 オタク、おもしろいアニメを勧めてくれてありがとう。

 ぼくは愛城華恋にはなれなかったけれど、ひとまず早起きができるようになることくらいは頑張ろうと思った。

 

*1:こうして書いてみて改めて思ったが、こういうメタ的な表現というのはやはりどうしても下品に思われて仕方ない。登場人物に「小説じゃあるまいし」と発話させる作家の気が知れない。

*2:ドゥニ・ディドロ著 小場瀬卓三訳『演劇論』

*3:今尾哲也「第四の壁―演劇における近代意識―」

*4:ここで稿者は本作がはじめから、これまで本作に関する一部の論考・考察において指摘されるようないわゆる「劇中劇」として上演されていたとの立場は取らない。ただあの演出が、我々観客にそうしたある種の疑念を喚起しうるという事実には一定の意義を認めるところである。