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わたしはまだ図書館を持っていないし、かれもどうやら持っていないようだった

ミネット・ウォルターズ「養鶏場の殺人」考――誰がエルシー・カメロンを殺したか?

 

 

互に拒んではいけない。(中略)そうでないと、サタンがあなたがたを誘惑するかも知れない。(コリントの信徒への第一の手紙7:5)

 

 ミネット・ウォルターズ「養鶏場の殺人」は1924年、イングランド南東部で実際に起きた殺人事件を題材にした中編小説である。おまけに最後には本件に関する著者の(それが憶測に近いものだとしても)推理までついてくる。爽快な解決や張り巡らされた謀略があるわけではないが、現代英国ミステリの女王とも目される彼女が、この事件をどうみたのか、それが知れるだけで喜ぶファンはいるだろうと思う。

 しかしながら、あえて結論から言わせてもらえれば、その「著者のノート」こそ、本作においては蛇足だったのではないか。いや、厳密にいえば本筋のテクストとの食い合わせがかなり悪い気がしている。20世紀のイングランドで起きた事実がどうだったかはともかくとして、本作というテクストに対応する読みとしては誤読してないか? というのが本稿の起点だった。

 したがって、本稿では、本作を「事実をもとにした小説-事実に対する著者の私見」という関係ではなく、「一個のテクスト-それに対する読み」という視座から鑑賞してみたい。

 

 1.物語の構造と展開

 エルシー・カメロンは神経質な女性だ。行き遅れかけていて、何事も何かのせいにする癖があり、落ち込みやすく、感情の起伏が激しい、「おとぎ話のお姫様」を夢見る小柄で不器量な女性だ。エルシーは神ではない「誰かに愛されたかった」。

 エルシーはひとりの青年に恋をする。4歳年下の、戦争帰りの技師ノーマン・ソーン。交際を始め、順調にみえたふたりだったが、ノーマンの失業、養鶏業の不振から、徐々に不和が生じるようになる……。

 物語はエルシーが初めてノーマンに声をかけるところから始まるのだが、そこではこうある。

 教会で出会った男性がその四年後に、ブラックネス・ロードという場所で自分を切り刻むなどと、だれに予想できるだろう。

  本作を最後まで読み、改めて立ち返ると、じつに意地の悪い仕掛けであることがわかる。ノーマンはエルシーを「切り刻」んだ。しかしここでは「殺した」などとは一言も書かれていないのだ。倒叙に見せかけ、我々はある種の先入観に誘導されながらノーマンをまなざすことになる。同じく収録されている「火口箱」でもそうだったが、こういう偏見が事件をまなざす視野をいかに狭窄させるか、みたいなひねた作為を感じないでもない。最終的に結末へ疑義を提示することが目的ならなおさら。

 物語は三人称視点で語られるのとはべつに、ふたりの文通パートが挿入されるかたちで構成され、ふたりの愛の温度差が生々しく強調されている。

 ふたりの温度差は、次のように残酷に描写される。

エルシーは眼鏡をとると、見えていない目でノーマンを見つめた。

(中略)「愛してちょうだい、ペット、お願い。あなたなしでは生きられないの。わたし、とても……寂しいの」

  エルシーはノーマンが「見えていない」。盲目的な恋に身をやつしているのだ。神以外の誰かに愛されたかったエルシーは、新たな神を発見する。神を信仰するのに、その姿かたちはもはや意味をなさない。しかしノーマンはこれを無情にも拒絶する。

「彼女は目がよく見えなかったんです……でも、眼鏡をかけていないほうが見た目がいいと、自分では思っていたんです」

「で、そうだったのか?」

「いいえ」

  残酷なまでに対比されたこれらの描写は、陰鬱な本作の雰囲気にさらに影を落とす。(とてもつらい!)

 エルシーの癇癪に振り回され、養鶏業も軌道に乗らず、ノーマンは徐々に追い詰められていく。そんなときエルシーが行方不明となり、その死体がばらばらに切断された状態で養鶏場から見つかるのだ。上述の通り死体を切り刻んだのはノーマンである。

 では、エルシーは他殺か、自殺か?

 誰がエルシー・カメロンを殺したか?

 物語は、無視するには大きすぎるしこりを残したまま、幕を閉じる。

 

2.ノーマン・ソーンと信仰

 ノーマン・ソーンはとても信仰に篤い青年として描かれている。「教会の奉仕活動にはすべて参加して」いて、自身の養鶏場にジョン・ウェスリーにあやかってウェスリー養鶏場と名前を付けている。

 加えてノーマンは野心家だ。少なくとも戦争で「ヒーロー」になれなかったことを悔やみ、恋人の勧めがあったとはいえ養鶏業で成り上がろうと一念発起するくらいには。

 すこし話が変わるが、本作において「鶏」と「エルシー・カメロン」は緊密な対応関係にある。ノーマンが鶏を屠殺するシーンは否応にもエルシーのばらばら死体に連結するし、後半の警部は船越英一郎ばりにエルシーを鶏になぞらえて説教する。

 鶏を殺すのにもいちいち胸を痛めるようなノーマンが、なぜ自らの恋人に手をかけた(かもしれない)のかは、彼の信仰心を追うことですこし見通しがよくなる。

姦淫してはならない。(モーセ十戒

さて、あなたがたが書いてよこした事について答えると、男子は婦人にふれないほうがよい。(コリントの信徒への第一の手紙7:1)

  ご存じの通り、キリスト教は婚前交渉を推奨していない。ひとはまず独身であるべきで、それがかなわないならば結婚するべきである、婚前交渉などは姦淫にあたるとして、カトリック教会などでは厳しく取り扱われる。

 ノーマンは若者並みの性欲を持て余していた。実際ノーマンは何度かエルシーに迫っている。避妊具の着用を是としているから、避妊を罪とする極端な思想は持っていないのかもしれない。それでもノーマンはエルシーの意に反した行動にはおよばなかったし、教会の教えは歯止めとして十分機能していた。

 ノーマンが初めて教会の教えに疑問を抱いたのは養鶏業が上手くいかず、金銭的にも苦境に立った時だった。

神はみずから助くる者を助く、とノーマンは教えられてきた。そして、勤勉はそれ自体が報いである、と。しかしそれでも、ノーマンの胸から不安が消えることはなかった。

  そして、追い詰められたノーマンは、ついにベシー・コルディコットと不義を働くようになる。うら若く、エルシーと違い何も要求しない彼女はノーマンにとって好ましく映ったのだろう、婚約を済ませた恋人を差し置いてふたりはセックスをするようになる。そこには若者の意気を敬虔な信仰で自制していた誠実な青年はもういない。

 彼の信仰はこの時点で堕しているとするのが妥当である。事実、警部補に彼が「聖書にかけ」て真実だと誓った、エルシーとは「十一月の最後の日以来会って」いないという供述は、虚偽だった。

 

3.「著者のノート」の是非について

 ここで本題に戻ろう。誰がエルシー・カメロンを殺したか? である。

 ノーマンの信仰がすでに堕しているとするならば、物語の最後、絞首刑を言い渡され、一貫して嫌疑を否定するも上訴を却下され、刑執行を迎えた彼が最期に父親にあてた手紙はどうなるだろう。

一瞬のことで、それですべてが終わります。いや、終わりではなく、神のもとへの第一歩です。ぼくはそこで父さんを待ちます。亡くなった人たちがぼくを待っているように。ぼくは無実です。愛をこめて……

 これについて、著者は「著者のノート」において次のように言及する。

わたしが興味を引かれるのは、ノーマン・ソーンが一貫して、エルシー・カメロンの殺害を否定していることだ。それは絞首台を前にしても変わらなかった。最後まで彼は、自分はエルシーが梁からぶらさがっているのを見つけたのだと言いつづけた。だからといって彼が無実だということにはならないが、もし彼が有罪ならば、神を信じる若者にとって、これは危険な賭けである。ノーマンは、天国行きを望むならば罪人は自分の犯した罪を悔い改めなければならないことを知っていた。

  加えて著者は未必の殺意も否定し、供述のある一点をもってその信憑性を弁護する。実際のところ、事実は著者が作中で示したようなものなのかもしれない。しかし、繰り返すが、本作を一個のテクストと考えると、ノーマン・ソーンの信仰はベシーとのセックスによってすでに堕落しているのである。とすれば、「聖書にかけて」真実と誓ったあの供述が嘘であったのと同様に、「ぼくは無実です」という言葉はまったくもって逆の意味になりかねない。両者の言い分を拮抗させ、問題提起を趣旨にするには、ノーマン・ソーンという人物はあまりに脆弱すぎた。その点、著者はテクストを誤読していると言えるだろう。

 

 問:誰がエルシー・カメロンを殺したか?

 答:ノーマン・ソーン

 

 追記:本稿は、エルシー・カメロンを誰が殺したのかを、一個のテクストとして読んでみようという動機で書かれているが、本作が過去の事実に立脚した物語である以上、一定の配慮が必要であるように思われる。つまり、本稿は、実在の人物の名誉を毀損することを企図しないことを、改めてここに明言しておく。