Krankenhaus

わたしはまだ図書館を持っていないし、かれもどうやら持っていないようだった

倒立する塔の少女~別れの再生産の視点から~

戯曲『スタァライト』は悲劇。結末は別れと決まっているわ。*1

 1.端書き

 劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』の上映が始まった。

 以前私はTV版をオタクの勧めで鑑賞し、ちょっとした評論めいたもの(愛城華恋とは誰だったのか ―密室を覗くということ、あるいは落下する読者― - Krankenhaus)を書いたことがあって、その際もうこの作品については何も書かねえといった趣旨の発言をしたのだが、性懲りもなくこうしてオタク顔でキーボードを叩いている。

 列車が必ず次の駅に向かうように、舞台少女が次の舞台に向かったように、私もケリをつけなければならないと思ったから――というのはさすがに格好つけすぎだが、情熱の赴くままにやれと西条クロディーヌも言っていたことだし、覚書程度に記すことにする。

 なお、本稿に引用する画像は主にまたちょうどいいタイミングで全話配信を始めたYouTubeの公式チャンネル(スタァライトチャンネル - YouTube)から拝借している。また、引用する台詞はすべて稿者によって文字起こしされている。劇場版については参照性がないから多少の異同があるかもしれない。一応3回は観たので大意には影響はないはずである。

 

2.これはオーディションにあらず

 TV版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』はトップスタァの座を賭けたオーディションが物語の骨格となっていた。では劇場版はどうか。

 TV版のオーディションからちょうど1年、突如始まった「ワイルドスクリーンバロック」に、花柳香子は思う――またオーディションが始まった、と。

 しかしこれは大場なな、そしてのちにキリンによって否定される。「これはオーディションにあらず」。

 オーディションとは、役者を登用するための選抜方法の一種である。その構造上、一般に配役の数だけしか競争を勝ち抜けない。トップスタァは舞台にひとり、だからこそふたりで「運命の舞台」を目指す華恋とひかりはTV版で苦悩し、その末にふたりでスタァライトをすることに成功した。

 劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』はオーディションではない。つまり、そこに勝者がいないことは、序盤においてあらかじめ明示される。

 

3.トマトとは何か

 劇場版においてトマトは重要なアイテムとして登場する。これについては先達が散々考証を重ねているだろうし、実際いくつかを拝読した。だから今さら鬼の首をとったようにこれを深堀りしても仕方がないので、本論に必要な範囲で一応触れておく。

 結論から言って、トマトが「舞台少女に新たな血を吹き込み、次の舞台へ向かわせるもの」として描かれていることは間違いない。

囚われ変わらないものは、やがて朽ちて死んでいく。立ち上がれ。古い肉体を壊し、新たな血を吹き込んで(中略)たどり着いた頂に背を向けて。今こそ塔を降りる時。*2

 第101回聖翔祭決起集会で読まれた『スタァライト』第1稿のこの台詞は、舞台少女のこれからを強く示唆する。というよりそもそも同じ舞台を再解釈し演じるという学園のシステム自体が、この代謝を表している。 『ロンド・ロンド・ロンド』でキリンが舞台少女の本質と『スタァライト』を同一視したのはこのためであり、大場ななが見た「舞台少女の死」とは、つまり舞台少女としての停滞のことを指すのである。

 舞台が終われば、次の舞台へ――舞台少女の「野生(wild)」は彼女たちを駆り立てる。

みんな、新しい舞台、立つべき舞台を求めて、すぐに飢えて、乾いて――。*3

  赤くみずみずしいトマトが連想させるのは血である。渇きを潤し、血肉となって舞台少女を蘇らせるものとしてトマトは機能している。また、赤はどうしようもなく運命を想起させる点にも留意すべきだ。*4

 これに当初当惑の色を見せたのが星見純那だ。彼女は飢えや渇きから目を背け、何にケリをつけるべきなのかを戸惑う。だからこそ大場ななとの「介錯」シーンで大場ななは星見純那を「いずれ熟れて落ちる果実」と表現し、切られた軍帽からは血が噴き出すのである。

 愛城華恋はずっと神楽ひかりとの「運命の舞台」を夢見て舞台に立ってきた。そしてそれは第100回聖翔祭において達成される。目的を達成した華恋は熟れ、内圧に耐えかね破裂してしまった。「死んでる」のは、生物としての愛城華恋ではなく、舞台少女愛城華恋だった。

 新しい、次の舞台へ向かうことが、本作のテーマであり、トマトはその装置としての役割を担っている。

舞台は、私たちの心臓。歌は鼓動、情熱は血。私たちは、舞台に生かされている。傷ついても倒れても、舞台が私たちを蘇らせる。舞台少女は何度でも、生まれ変わることができる。*5

 

4.倒立する塔について

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逆さになった東京タワー

 戯曲『スタァライト』の塔や、ひとりしか勝ち上がれないオーディションの象徴(頂点はひとつなので)としてTV版から長くその役目を果たしてきた東京タワーは、本作において倒立する。映画の最後、華恋をひかりが貫くと同時に、東京タワーは真っ二つに割れ、その先端はクソでかいポジションゼロに突き刺さる。この意味についてすこし考える。

 劇場版において勝者はいないと先述したが、厳密には正しくなく、実際には少女たちはそれぞれの舞台に立ち、戦い、勝敗を決し、各々のこれまでにケリをつけていく。特徴的なのはそれらの勝敗がこれまでを通じて描かれた関係と逆転することである。

 石動双葉は花柳香子を「待たせる」ようになり、大場ななはそれまで星を見上げるばかりだった星見純那を「眩しい」と仰ぎ、天堂真矢は西条クロディーヌに魅せられ、そして神楽ひかりは愛城華恋に再び手紙を送る。露崎まひるは少し特殊だが、TV版に引き続き今度は神楽ひかりへの私怨を清算し、自身の道を進むことを決意する。

 この関係の逆転と倒立する塔のモチーフの対応は、TV版でもすでに見られ、窮地にてきらめきを取り戻したひかりが大場ななを一転攻めるシーンでは、ひかりの攻勢に呼応するようにタワーの先端が落下してくる。

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ひかりのきらめきが再生産され、落下するタワー

 このように倒立する東京タワーは関係の逆転を表し、またそれはこれまで絶対と思われた頂の唯一性が毀損されることを示している。塔が倒れ、失われたからこそ、少女たちは塔から降り、今度はどんな塔にも登り始めることができる。塔をあえて破壊してみせ、また「再生産」してみせることによって、舞台少女たちは初めて自由になったのである。

 

5.戯曲『スタァライト』は別れの舞台

わたしたちは、一緒にいられない。この舞台は、別れのための舞台。*6

  戯曲『スタァライト』は別れの物語である。この悲劇を、別れの続きを描くことで克服しようとしたのがTV版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』であり、第100回公演だった。『スタァライト』が別れの舞台である以上、いくら再解釈しようとその筋書きは別れからは逃れられない。では劇場版において別れはどのように描かれているか。

 戯曲『スタァライト』はフローラとクレールによる悲劇である。TV版においてこの役を担ったのは言うまでもなく華恋とひかりだ。では塔が「再生産」され、乱立する世界で、その役を担うのは誰か。それはもちろん愛城華恋と神楽ひかり、あるいは露崎まひるであり、石動双葉と花柳香子であり、大場ななと星見純那であり、天堂真矢と西条クロディーヌである。本作は舞台少女たちの決別を描いた物語であり、やはり別れの舞台なのだ。

 示唆的なのは大場ななと星見純那によるワイルドスクリーンバロック④の中の一幕、ふたりが別々の舞台へ歩みを進めるシーンである。ふたりの道はともに伸びたポジションゼロ上にあり、ここで我々は改めてこれがオーディションではないことを思い出す。これはTV版12話においてひかりと華恋がポジションゼロを分かつようにして舞台に引き離されるのと実に対照的である。

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真っ二つに割れるポジションゼロ

 自由を手にした舞台少女が、これまでと決別して今度はそれぞれの頂に向かって歩き出す――劇場版の別れは第99回、第100回より前向きなものとして再解釈されている。また決別は少女間の関係だけではない。華恋は舞台少女として生まれ変わるためにこれまでの過去(運命の舞台に囚われてきた自分)と照明の熱で焼き払う。運命の舞台の実現を目指したTV版はあれはあれで美しいが、とどのつまり他人に依存した情熱でしかなく、舞台少女であり続けるためにそれは許されなかった。そして運命の舞台から解放された華恋は最後に言うのだ。「ひかりに負けたくない」。

 

6.結語、あるいはチラシの裏

 たらたらと続いた感想文もここでおしまいである。劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』、とてもおもしろかった。でけえ音で音楽を聴くのはやっぱり良い。

 私もこれを書いて、ひとつケリをつけたことにする。舞台少女たちが「現在、今この時」もそれぞれの舞台で塔を登っているように、私も次に進まなければならない。いつまでもクネクネしている場合ではない。

 今こそ塔を降りる時。

 

*1:TV版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』第8話、大場ななの台詞

*2:劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』、決起集会にて

*3:劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』、大場ななの台詞

*4:花言葉キリスト教的観点からトマトを見る論考もいくつか読んだが、そこまで読むのは些か想像力がたくましすぎる。「糧」としてのキリンは様々な野菜の集合体だったし、あくまでこの理由に加え取り回ししやすい野菜がトマトだった、というだけのことであると私は考えている。

*5:TV版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』第11話、西条クロディーヌと天堂真矢の台詞

*6:劇場版『少女☆歌劇レヴュースタァライト』冒頭、神楽ひかりの台詞